くにたち、あの日あの頃 10 - 富士見通りの塵芥収集風景 1958年7月

富士見通り 1958(昭和33)年7月(写真:くにたち郷土文化館蔵)

富士見通り 1958(昭和33)年7月(写真:くにたち郷土文化館蔵)

鈴を鳴らして厨芥(生ごみ)収集のリヤカー(軽自動車のところもあった。)がやってくると、生ごみの入ったバケツなどを持って人々が集まってくる情景は、東京のどこの町でも見られた。50年代後半くらいまで東京の区部では、ごみの分別は厨芥と雑芥(紙、木、ガラスなど)の2種類だけで、今日のように石油製品のごみは考えられていなかった。厨芥は、養豚場などで飼料として再利用されたが、雑芥は各戸が購入した木製かコンクリート製のごみ箱を使用し、収集も戸別に行っていた。その後1962(昭和37)年には、国立町で都下初のケースとして、500世帯を対象にポリ容器による収集が始まる。

高度経済成長期に入ると、こういった情景は急速に姿を消していったが、モノが溢れる豊かさの代償に、処理能力を超えるごみも比例して増えて行き、深刻な問題を引き起こすことになった。

くにたち公民館だより 2006年03月 553号 ‐ くにたち、あの日あの頃10

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